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| 昭和20年8月6日午前8時15分米軍の原子爆弾の投下により広島は一舜にして火の海と化し多くの犠牲者が出化学兵器の恐ろしさは想像もつかない生き地獄のような有様でございました。私は当時中心地の中島新町の坪井産婦人科に勤務しておりました。当日先生のお使いで己斐駅に行き構内で被爆しました。幸いに外傷もなく己斐の山に避難し黒い雨に遭いました。10日間先生のご家族、先輩を捜し歩きましたが一人の生存者もなく救護所で多くの方の救護に従事し解散になるまで四カ月くらいだったと思います。あれから五〇年夢のように過ぎましたが再びこのような核戦争があってはいけません。次の世代には各国々仲良く手を取り合い戦争のない平和な暮らしができますように念願しております。毎年8月6日の慰霊祭には1度も欠席したことはありません。これからも元気な限り参列し多くの方々のご冥福をお祈りしますことを誓っております。思い出すことが恐ろしく書けなっかたのですがおもいっきって描きました。最後に犠牲者の方々のご冥福を祈り全世界が平和になりますようお祈りし申し上げます。 |
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