第二次世界大戦中、当時19才だった私は、広島市中区の産婦人科の病院に勤める看護婦でした。今でこそ、『戦争は悪いこと、平和が一番』そう思いますが、当時、愛国主義と、天皇崇拝を教育されて育った私は、日本がこの戦争に負けるはずはない。と信じていましたし、国のためには死ねる、とも確かに思っていました…
8月6日、朝。その日私は広島市西区の己斐駅に向かっていました。
その日は、院長先生のおつかいで、己斐駅の駅長さんに会いに行かなければなりませんでした。
実は前日、同僚の看護婦が己斐駅方面に用があったので、そのお使いもついでにと、頼んだのですが、断られてしまったのです。私は仕方なく、6日の朝、己斐へ向かったのでした。
己斐駅に付いて時計を見ると、8時でした。駅長さんは8時半に出勤されるということで、8時半まで、駅で待つことになったのでした。
そして8時15分・・・・・
ピカッとあたりが光って、ものすごい音がしたことは覚えています。しばらくは何が起こったのか、分かりませんでした。朝なのにあたりはまっくらで、ただ、『何か』が起こったことだけは確かでした。辺りの建物はいつのまにか潰れて、そこは本当に地獄というにふさわしい状態でした。
祖母は、当時の様子を思い出す限り詳しく話してくれましたが、やはり原爆投下直後のショック
は大きかったようで、あまり思い出したくないのか、そこの部分だけがいつも少し曖昧でした。
後に、阪神大震災のニュース映像を見て、当時の記憶と重なる部分が多々あったようで、
しばらく夢にうなされたりしていたようでした。
映画などで原爆投下後のシーンを見るたびに、『こんなもんじゃなかった』と、必ず聞かされました…
私は人の流れるまま、己斐の山へ登りました。空は相変わらず暗く、しばらくして、黒い雨が降ってきました。人々は
『アメリカが石油をまいて、火を付けて皆殺しにするつもりなんじゃ』
と、うわさし、おびえていました。実際その雨は、黒くて臭い、本当に石油のような雨でした。
し かし、その雨に火が放たれることはなく、それは、石油でもなく、原爆で舞い上がったホコリや塵を、そして放射能を含んだ雨だったのでした。
山の上からは火の海になった市内の様子が見えました。ちょうど食事時にあたる時間帯だったので、火の手が上がるのも、火が回るのも早かったのです。
しばらくして少し落ちつくと、私は先ず、病院の同僚や友達の事を思い出しました。
『みんなは生きとるんじゃろうか。』
私の務めていた病院は、被爆地のすぐそばにあったのです。病院のそばには大きな棟があり、そこに入ればどんな爆弾を落とされても大丈夫だと言われていました。しかし、実際には・・・その建物さえ跡形もなくなっていたのでした。当然当時病院内にいた同僚や先生達はみんな死んでしまいました。私ももし、お使いに出かけていなかったら・・・前の日に、同僚がお使いに行ってくれていたら・・・私は偶然命拾いをしたわけです。
人々ははまるで人間ではないようでした。
衣服を爆風ではぎ取られ、皮膚さえもはがれ、はがれた皮膚は指の先、爪の部分で止まって、ブランと垂れ下がっている状態。
学校の校庭では朝礼中の学生たちがきれいに一列に並んだまま、倒れて黒い固まりになっていました。
ガラスの破片が体中に突き刺さったままの人。
水を求めて川に入り死んでいく人たち。
川の中は隙間もないくらい、人であふれていました。
首を何かの破片で切り、血が噴水のように吹き出ている人、
外国人の死体やけが人のまわりには、助けるどころか罵倒する人たちが集まり、石を投げ付けていたり・・・
うめき声、泣き声、叫び声・・・・・
そんな中を私は知り合いを捜して歩き回りました。探すといっても、負傷者の大半が、顔も分からない状態なのですから、どうしようもありません。ただ、知り合いの名前を呼び、歩きました。
何日歩いたでしょうか・・・ようやく知り合いのひとりに出会うことが出来ました。
彼女は全身に火傷を負っていました。私は彼女を背負い、被害を受けていない離れた病院まで運んだのでした。大柄なその友達は、背負っていてもすぐにずり落ちて来ます。背負い直す度に痛がりました。彼女はその痛さから来る苛立ちをぶつけて来ましたが、それでも、その痛みをどうしてあげることも出来ませんでしたから、汗だくになりながらも、ただただ歩きました。
彼女がその後どういう経緯で亡くなったのか、私の記憶にはありません。
病院かどこかにたどり着いてから亡くなったと聞いたと思うのですが、定かではありません。
結局生きたまま出会えたのは、その友達一人だけでした。
家族の事を思い出したのは原爆投下から1週間から10日は過ぎた頃だろうと思います。
本当は先ず真っ先に家族の事を思い出さなかったのが不思議なくらいですが、それまでの数日の記憶は本当に曖昧で、とぎれとぎれで、自分で何をしていたのか分からない状態なのです。
やっと我に返って、家族のことを思いだし、私は家に帰ることにしました。
私の実家は県北の田舎でしたので、帰るには汽車に乗らなければなりませんでした。
広島駅に向かった私はそこで大勢の子供達に合いました。
駅の前の土が盛ってある場所で、子供達が遊んでいたのです。
近くに親が居る様子はありません。
原爆で親を亡くした子供達だったのでしょう。
子供の一人が私に言いました
『おねーちゃん、何か食べる物ちょうだい』
何かあげたかったのですが、あげるものなど何もなく、なかなか離れようとしない様子に仕方なく
『今度来るときに、おにぎりを持ってきてあげる』
と、約束しました。
広島駅からは汽車は動いていなかったので
仕方なく線路沿いにしばらく歩いて、動いているところから汽車に乗りました。
家に帰った頃、辺りは暗くなっていました。
私を見て、家族はとても驚きました。 私は実家では死んだと思われていたのでした。
広島に新型爆弾が投下されたと知り、弟が広島に探しに来てくれたらしいのですが、結局出会えず、当の私からは何の音沙汰もなかったのですから、家族に私が死んだと思われても仕方のないことでしょう。
死んだと思っていた娘が、辺りが暗くなった頃、姿を現したのですから、幽霊だと思われて大騒ぎになりました。
本当に生きていると分かった後も、その騒ぎはしばらくおさまりませんでした。
そして、私は戦争が終わったことを知りました。
実家に帰った翌日、すぐ私のところに召集の連絡が入りました。
広島に戻れというものです。
市内はたくさんのけが人で埋め尽くされています、その人達を治療、看護する、医師や看護婦が必要だったのです。広島市内では、医師や看護婦も被爆していましたから、その数はとても少なかったのでした。
私はすぐに広島に戻る事になりました。
思い出したのは、広島駅で会った子供達でした。
『おにぎりを持ってきてあげる』という約束です。
私は広島に戻る日、たくさんのおにぎりを作りました。約束をしたときの子供達の顔が目に浮かびました。
もしかしたら子供達はおにぎりが来るのを待っているかもしれない。
そう思って広島駅に着くと・・・そこにはもう、子供達の姿はありませんでした。
あの子供達がどこへ行ったのかは、結局分からないままでした。
市内はまだ、悲惨な状態でした。
動かない市内電車の天井は、一見、黒く塗ってあるのかと思うほど、たくさんの蝿がたかっていました。
暑さで傷口や死体にはうじがわき、人々は水を欲しがりました。
傷口はどんどん化膿し、薬も包帯も、何もかもが足りない状態です。足を切断するときでさえ、麻酔もかけられないほどでした。
切断された足は、切り落とされると同時に一人では支えきれないほど重く、人の体はこんなに重いのだと、初めて知りました。
『水を飲むと死ぬ』
そう言われていましたから、どんなに欲しがっても水を飲ませる訳にはいきません。
『水を・・・』と言いながら死んでいった人たちも、決して映画やドラマの世界の話ではないのです。
あまりの悲痛な叫びに、どちらにしろ亡くなってしまうのだから、一口だけと思い、水をくみに行っている間に亡くなった方もいました。
ほとんどが助からない人たちだったのだから、最後に水くらい、飲ませてあげればよかったと、今になれば思います。
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